塾日記(4) 令和5年・6年
ファミール誌での連載が終わって
締め切りや字数制限がなくなりました。
読者数もかなり減ってしまうでしょうが
その分親密な話もできると
楽しみにしています。
月始めの更新を怠らないように
努力しますので
今後ともご愛読ください。
引き続きタイトルの最初と最後の文字を
同じにして「いろは」の順に
並べています。
令和3,4年のコラムは
目次から「塾日記(3)」を
ご覧ください。
令和5年
1月 う・「卯年、飛躍の年に思う」
2月 ゐ・「ゐなかにさくあぢさゐ」
3月 の・「望みを繋ぐもの」
4月 お・「大村知事から届く笑顔」
5月 く・「口に馴染んだあの文句」
6月 や・「やたら長いけどあやふや」
7月 ま・「まず結論ありきがジレンマ」
8月 け・「結果を位置づけ」
9月 ふ・「フォーマットしてキックオフ」
10月 こ・「好循環が生む宝石箱」
11月 え・「遠方より届く教え」
12月 て・「転職に関して」
卯年、飛躍の年に思う
(令和5年1月1日)
今年はうさぎ年。正確には「癸(みずのと)卯年(うどし)」といいます。
実は「十二支」のほかに、「十干(じっかん)」というものがあるんです。
「癸」はその10番目、最後の要素です。
ちなみに、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場が完成したのは1924年。
この年は十干が「甲(きのえ)」、十二支が「子(ね)」、つまり甲子(きのえね)の年だったことから「甲子」の名が付けられました。
十干と十二支の組み合わせなので120通りあるように思われますが、両方とも偶数で2つずつずれていくので、「十二支」の中の偶数番目と「十干」の中の奇数番目が組み合わされることはありません。
ということで全60通り。60年ひと回りすると「還暦 = 本卦還り(ほんけがえり)」となるわけです。
ウサギは安全の象徴、またその跳躍力から飛躍や向上の象徴とされます。
その卯年の始まりにあたって目標を新たにしている方も多いと思いことでしょう。
できれば「勉強を頑張る」「新人戦優勝」などの一般論的な目標ではなく、そのためにどこをどうするか具体的な手段を目標に据えることをお勧めします。
意識の改革ではなく、方法の改革が現実的です。
「お金持ちになりたい」というのならお金持ちの具体的な定義を、「女性にもてたい」のならもてる男性の具体的な特徴を学習することです。
1万円札やアイドルの観察から始めるのもいいかもしれません。
「仕事に励もう」と意気込むより、誰よりも高価なスーツを新調したり、会話のネタを豊富にするために新聞・雑誌を定期購読したり、英会話教室に通ったりする方が、価値があるように思えます。
「形から入る」という日本的な発想は、決して過去にだけ当てはまるものではありません。
大地を踏みしめるたくましい後足が、美しい飛躍の原動力です。
ゐなかにさくあぢさゐ(田舎に咲く紫陽花)
(令和5年2月1日)
このコラムのサブタイトルを「いろは」の順に並べていることは、ご存知のとおり。
その「いろは」を生徒さんに書いてもらうと、「いろはに」と「ういのおくやま」という所に「い」が2回出てくるのはどうしてか、また「けふこえて」と「えひもせす」という所に「え」が2回出て来るのはどうしてかとよく聞かれます。
正確には「うゐ(有為)のおくやま」(=様々な因果関係の絡む深い山のような人生)、「ゑひもせす」(=酔いもしないで)というように「ゐ」と「ゑ」が使われているので、「い」と「え」が2回出てくるわけではありません。
「ゐ」と「い」、「ゑ」と「え」の使い分けについては省略しますが、現在の「あいうえお」の表に抜けている「わ行=わwa・ゐwi・うwu・ゑwe・をwo」が存在し、発音も異なっていたと言われています。
時代とともに「ゐ」「ゑ」の発音が「い」「え」に吸収されてからも、単語によって文字が使い分けられてきました。
「マイ・フェア・レディ」に出てくる音声学の大家ヘンリー・ヒギンズ教授が聞いたら、 ”Why Can't The Japanese?”(なぜ日本語が話せないんだ)と憤慨するでしょうか。
こんな例もあります。「見られる→見れる」「来られる→来れる」などのいわゆる「ら抜き言葉」は一時は正しい日本語ではないと批判されましたが、すでに多くの場面で通用するようになり、むしろ多数派と言ってもいい状況です。
また、「ぜんぜん~する」という言い方は間違っていると言われますが、もともと「ぜんぜん」の後に肯定文がくることは間違いではありませんでした。
大正時代くらいまで「ぜんぜん」は「すべて」という意味で用いられていたのです。夏目漱石の「坊っちゃん」にも「生徒が全然悪い」という一節が見られます。
それが次第に否定的に用いられるように変化して現代に至っているのです。
このように、言葉は時代とともに変遷してきました。個人的な感想ですが、現代の女子高校生のように新しい言葉に敏感なのはいつの世でも女性であったような気がします。
日本語のルーツを探る旅は、まず徒然草や漢文の素読からがお勧めです。
意外に快く楽しいものですよ。
是非お試しあれ。
望みを繋ぐもの (令和5年3月1日)
春は名のみの寒風の中、3年ぶりにマスク着用規定が緩和されます。
今年卒業を迎えた生徒さんの中には、マスクをはずした同級生の顔を卒業式で久しぶりに見るという人も少なくないでしょう。
卒業生に限らず多くの子供たちはこの3年間、家族と共に旅をする楽しみや、さまざまな青春時代の想い出づくりの場をほとんど経験せずに過ごしました。
マスクの印象が強すぎて、数年後の同窓会で顔と名前を一致させるのに苦労するのではないかと余計な心配までしてしまいます。
ご父兄や先生方も、感慨深くで今年の卒業シーズンを迎えておられることでしょう。
卒業式と言えば、私は以前から給食を作り続けた方々を卒業式に招待して子供たちの門出を見てもらったらどうかと考えていました。
最近は何もかもが清潔・便利になってしまって、大人でも肉や野菜が最初からパックに入って並んでいるような、あるいはどこかのテレビゲームのように毎日エサと水をやれば家畜や野菜が勝手に育つような錯覚を抱くことがあります。
日常当たり前のように享受している清潔・便利が、実は多くの人の尽力の上に成り立っていたということを、今回のコロナ騒ぎは改めて気づかせてくれました。
互いの気持ちを察することができない社会は不幸です。
数年後の子供たちが「そう言えば学生のとき、みんながマスクをしていた時期があったっけ」と振り返るとき、その苦難を乗り越えるために日夜を問わず働き続けた人々がいたこと、当たり前のように見える清潔さと便利さを支える縁の下の力があることを思い出してほしいと願わずにいられません。
明日への望みを繋いでいる尊い尽力を、決して忘れてはならないのです。
ともあれ、この春日本全体がマスク生活からのひと段落の卒業を迎えようとしています。
ご卒業おめでとう。
Bon Voyage!(よき人生を)
大村知事から届く笑顔 (令和5年4月1日)
2016年9月、ファミール誌に「そろそろなんとかして」というタイトルのコラムを掲載させていただきました。
時間と資源の有効活用、そして家族単位の活動尊重のために、もっと自由な休日の決め方をしてほしいという内容でした。
画一的な休日をどれだけ増やしても、限られた時間と設備の奪い合いにしかならないと思ったからです。
同じ考えの方が愛知県にいらっしゃったようで、7年後の先月愛知県の大村秀章知事から「休み方改革」の一環としてふたつの施策が公表されました。
ひとつは「ラーケーションの日」。
これは、learning(学習)とvacation(休暇)を組みあわせた造語だそうで、愛知県内の公立校に通う生徒が、年に3日まで自由に学校を休んで保護者とともに過ごすことを認めるというもの。
もうひとつは「県民の日学校ホリデー」。
毎年秋の「あいちウィーク」期間中、各学校が自由に1日を選択して休業日とするものです。
2つの施策とも年内に実施されます。
先月27日、人事院の有識者研究会から国家公務員の週休3日制が提言されました。
次第に認知されつつある「働き方・休み方改革」ですが、ゴールデンウィークや旧盆のように多くの国民が一斉に休むのではその効果が半減します。
特にこの3年間、子供たちは行動に大きな制限を受けて過ごしました。
子供時代の3年間はさぞ長い空白の時間だったに違いありません。
せめてこれからは子供たちが自由に非日常の世界を満喫できるように、格別の配慮をいただけたらと切に願っています。
口に馴染んだあの文句 (令和5年5月1日)
以前「真珠港」というタイトルで、「港はharbor、湾はbayだから、Pearl Harborは真珠湾でなく真珠港が正しい」と書いたことがありましたが、今回も意外に知られていない外来語の語源を集めてみました。
たとえば映画の街として有名な「ハリウッド」。
日本では聖林と書くこともありますが、よく見るとholy(聖なる)ではなくholly(ひいらぎ)、つまりHollywood=ひいらぎの森というのが正しい名前なんです。
このように意外と知られていない勘違いを並べてみましょう。
「背広」とか「お転婆」、博多の「どんたく」などと日本語のように思われている言葉も、実は英語のcivil clothes(シビルクローズ=市民の服)ontembaar(オーテンバール=オランダ語で扱いにくいという意味)、zondag(ソーンダック=オランダ語で日曜日という意味)にそれぞれ由来する外来語なんです。
同じく、東京駅周辺の「八重洲」は、家康の時代に通訳として来日していたオランダ人ヤン・ヨーステンから取られた名前でした。
ちなみに、長崎県の「佐世保」はフランス語のC'est bon(セシボン=素晴らしい)から来ているという説がありますが、フランス人が来る前からこの町の名は存在していたようで、これは間違いのようです。
「アルバイト」はarbeit(ドイツ語で労働の意味)、「ハンバーグ」はその発祥の地とされるドイツの都市Hamburgの英語式発音ハンブルクから来ています。
また、寿司の「バッテラ」は形が船のように見えることからポルトガル語で小舟を意味するbateira(バッテイラ)と呼ばれるようになり、「天ぷら」も、ポルトガル語のtempero(テンペーロ=調理)が転じたという説が有力です。
さらに私の大好きな「ポン酢」も実はオランダ語のpons(ポンス)が由来と言われています。
回転寿司にマイポン酢を持参する私には、まさに衝撃の事実でした(笑)。
やたら長いけどあやふや (令和5年6月1日)
「~したときぃ、~があってぇ、~だからぁ、~になっちゃってぇ、~なんだけどぉ」…。やたらと長い話し方をする人がいます。
たくさんのことを話しているようで、結局言いたいことは何も伝わらない。
①結論は最初に述べる。
②ひとつの文章に言いたいことはひとつ。
③ひと息で言えない文章、原稿用紙で3行以上の文章は避ける。
これだけで、会話や作文がぐっと引き締まった印象を与えます。内容もわかりやすいはず。
新聞記事は専門用語や外来語が多いため少々長めですが、とてもいい教材になりますよ。意識して読んでみましょう。
誰でも伝えたいものを持っています。それが正しく伝えられなくて、さまざまな苦労や悲喜劇が生まれるのはご存知のとおり。
自分の気持ちや意見を正しく伝えることは、大きな意味を持つ能力です。
ちなみに、日本人の歌唱力がアップしたのはカラオケのおかげ、国語力がアップしたのはeメールからSNSへと繋がる通信技術のおかげ、とも言われます。
ならば、とにかく無駄を省いた明解な文章に多く触れることです。
小説でも映画でも、好みの文章、好みのセリフに出会ったら、パソコンに残しておいてはいかがでしょうか。
正しい表現方法を身につけると自分の主張に自信が持てるようになります。
地方出身者が方言にコンプレックスを持って人付き合いを避けたり、せっかく外国に行っても日本人だけで行動したりするのはよく耳にする話。
自分の感情を表現できない(しない)のは、大きな損失です。
学習は単なる知識の伝達ではなく
人生にゆとりと楽しみを与えてくれます。
まず結論ありきがジレンマ (令和5年7月1日)
エピソード①
ある科学者が、大きな音で昆虫を驚かせてジャンプさせるという実験をしていました。
ある日、その虫の足を何本か取ったところ虫は跳べなくなりました。
そこでその科学者の出した結論は、「予測どおり、この昆虫は足を取ると耳が聞こえなくなる」というものでした。
エピソード②
先日ある番組で、「You and I」という同じ発音を聞いても、「言えない」という文字を見ながら聞くと「言えない」と聞こえるのに、「言える」という文字を見ながらだと「言える」と聞こえるという面白い現象を体験しました。
「水路付け」という言葉があります。人はある思考に縛られると、異なる思考を受け入れにくくなるという心理学用語です。
小説の中の名探偵たちは、推理の過程を決して周囲に明かしません。もったいぶっているわけではなく、先に結論を知ると人はその結論に都合のいい証拠しか見ようとしなくなるからです。
それほど先入観は思考の妨げになります。
目的地に向かっているときの時間より、帰りの方が短く感じたことはありませんか。
子供の頃、あんなに長く感じた夏休みも、今ではカレンダーを1枚めくるとすぐ終わりが見えてしまいます。
逆に新しい趣味や習い事を始めると1週間がとても長く感じます。
このように、未知のものに触れると周囲から得られる刺激と情報はずっと多くなります。
「リトマス試験紙は、酸性の水溶液に触れると赤色、アルカリ性の水溶液に触れると青色に変わります。これを実験してみましょう」
「この靴を履くと速く走れます。タイムを比べてみましょう」
このような結論ありきの実験からは正確な情報は得られません。
学習とは「仮説と検証」の繰り返し。
子供のような好奇心を失わず、結論・結果を急がない粘り強さこそが大きな才能に違いありません。
結果を位置づけ (令和5年8月1日)
夏休み後半に向けて---
「本気さえ出せばできる」と思っているうちは、何もできません。また、他人の行動を見て「そんなこと誰にもできるだろう」と安易にかまえていても、実行するのははるかに難しいもの。
当たり前のことでも、やるのとやらないのとでは雲泥の差があります。そこそこの努力や覚悟でできることなど、ひとつもありません。
最近スポーツニュースを見ていると「〇〇選手はホームランで勝利に貢献しました」「ファインプレイでレギュラー入りをアピールしました」という解説をよく耳にします。
チームワークに徹したプレイヤーは貢献しなかったのかと、目立たなかった選手の父親になったつもりで勝手に腹を立てています。
もちろん「全国〇〇校の頂点に立ちました」というお決まりの表現にも、1回戦で負けた選手はすそ野なのかと、きちんとツッコミを入れています(笑)。
「貢献する」「アピールする」「本気さえ出せば」というのは、順位を競いたい、認められたいという欲求から生まれる表現です。
けれどそれを決めているのは所詮他人の目、スポーツや学業の本質とは無縁のものです。
一方でニュースに取り上げられることはありませんが、順位を競わず完走することだけを目的とする過酷なレースも開催されています。
賞金も名声も約束されず、完走できるのは数名だけという厳しい条件のもと、間に合わなくてもとにかく走るという、そんなアスリートたちが存在するのです。
結果の位置づけにとらわれず、黙々と完走を目指す孤高のランナーたち。
人生という長い道のりを謳った「My way」という歌を思い出しました。
フォーマットしてキックオフ (令和5年9月1日)
洋画のエンドロールを見ていて、「外人はこんなに早く大量の英語を読めるんだろうか?」と疑問に思ったことはありませんか。
こちらは有名なスターや監督の名前をいくつか見つけるのが精いっぱいで、あとはただ眺めているだけなのに。
けれどそれはお互いさまで、外国人たちは、「鳥」と「島」、「妻」と「毒」を瞬時に読み分けたり「叱咤激励」「大規模災害対策特別本部」などをスラスラと読む日本人を、脅威をもって眺めているんです。
問・「バイリンガルは、日本にいるときは日本語の夢を、アメリカに帰ると英語の夢を見るといいます。では往復の飛行機の中ではどんな夢を見るでしょう?」。答・「字幕付きの夢」…。
これはジョークですが、私も旧友と電車で同席したとき、米原までの北陸本線では福井弁、新幹線に乗ったとたん標準語で話すという不思議な経験をしたことがあります。
使い慣れた言葉でさえ無意識のうちに切替えが行われているのだと、とても興味深く感じました。
刻々と変化する自然を、詩人は詩人の目で、科学者は科学者の目で見つめます。両者には何に関心を持つかというフォーマット(初期化)の違いがあります。
私たちはまぎらわしい漢字を見たとき、まずどこに注目すべきか経験から判断し、文意にも照らし合わせて読み分けているのです。
この切替えを勉強に応用して、数学を勉強するときは計算用紙を、歴史には年表を手元に置くようにするとか、さらに理科の勉強をするときは自然や実験が大好きになったつもり、国語の勉強では詩人になったつもりで教材に向かうといった切替えを行うと知識を整理しやすくなります。
また、暗記、計算、読解など異なるスキルを使う科目を意識的に交代していくと、頭の切替えができて疲労が少なくなるように感じることがあります。
数学や国語のような長時間の思考を要する科目と、短時間を繰り返す方が効率のいい暗記科目を組み合わせるのもいいでしょう。
広大な学問の世界へキックオフする前に
きちんとフォーマットできているかご確認を。
好循環が生む宝石箱 (令和5年10月1日)
「勉強ばかりしていると性格がゆがむ」、「イヤなことを無理してやる必要はない」という方もいらっしゃいます。
けれど、人間に秘められた無限の可能性は、磨かなければ伸ばすことができません。
個性とは好きなことを楽しくやっていれば自然に形成されるというものではなく、長年の努力によって初めて輝きを与えられるものです。
さまざまな技能を習得するために、人間が長い年月をかけて生み出した制度がスクール(語源はギリシア語のスコレ=自由な時間)というシステムであり、テキスト(語源はラテン語のテクストゥス=織物)というツールなのです。
たとえばラグビーについて少し本を読むと、各ポジションの役割や作戦の組み立てがわかるようになってもっと楽しめるようになります。
馬に乗ってみると、馬とのコミュニケーションの取り方がわかるようになります。
何ごとにおいても、勉強を続けていると多種多様な充実感と感動を知ることができます。
これが知的な好奇心や向上心を刺激して、ただ教えられるのでなく自ら学びたいという欲求が芽生え始めます。
さらに高みに登ると、異なる高みを目指す人々との出会いが生まれ、世界は宝石箱のようにさまざまな輝きを見せてくれます。
「幸せだから感謝する」そして「感謝するから幸せになる」。
「チームワークがいいから試合に勝てる」そして「試合に勝つからチームワークがよくなる」。
これと同じように、「勉強するから世界が広がる」そして「世界が広がるから新しい勉強の扉が開く」という好循環が生まれます。
勉強を嫌いにならないように教材の量を減らしたり音楽の教科書に流行歌を入れたりしてハードルを下げるのでなく、量と質を高めることでやる気を出す方法もあるということを是非ご検討ください。
遠方より届く教え (令和5年11月1日)
チャップリンの喜劇映画「モダンタイムス」が公開されたのは、二・二六事件の起こった1936年のこと。
人間が機械に使われる社会を描いて、人間性の崩壊を予言しているようだと話題になりました。
それから90年後の現在、私たちはスマホやパソコンなしでは仕事もできない日々を送っています。
となり合わせていてもディスプレイに集中する人々。
世界中と繋がっているつもりが実は目の前の現実と切り離されているという、情報化のもたらす「分断化社会」が、チャップリンの予言どおり現実のものとなったのです。
また昨今ではSNSへの過度の依存によって「映(ば)える」「バズる」もの探しが多くの人の関心事となり、「いいね」の数が良し悪しの基準になっているように思えることがあります。
自分が本当に食べたいものや見たいものではなく、他人に共感してもらえるものを求めて時間と労力を消費している社会。
機械を使っているのか機械に使われているのか。
余計なお世話と知りながら「疲れないですか?」と声をかけたくなります。
さらに無責任な発言や批評が人を傷つけたり、捏造された動画やニュースが世界中に広がっていくということも少なくありません。
130年ほど前、当時登場したばかりの映画が「一時の娯楽にすぎないオモチャ」と言われ、80年ほど前に日本に初登場したテレビが「幼稚な電気紙芝居」と呼ばれたように、現在のインターネットもまた、遠い未来からの「教え」を秘めた未完のツールなのでしょうか。
転職に関して (令和5年12月1日)
江戸時代の職業を大きく「武士」「農民」「職人および商人」の3つに分類すると、その人口比率は「武士」7%、「農民」85%、「職人および商人」5%くらいであったと言われています。
なんと国民の85%が農業に携わっていたんですね。
ただし参勤交代の制度によって全国の大名屋敷が江戸に置かれていたため、18世紀に人口100万人という世界一の都市となった江戸の町の中に限って言えば、約半数が武士であったということです。
人口の半数が侍というのも、怖い気がしますけど(汗)。
さて、明治維新から約150年後の現在。日本人の産業別労働人口の比率は、第1次産業(農業、漁業など)が全体の約5%,第2次産業(製造業、建築業など)は約25%、第3次産業(販売、運送などのサービス業)は約70%となっています。
第1次産業人口の減少と第3次産業人口の増加が顕著に見てとれます。
これだけ急激に産業別の人口構成が変化した国は珍しいでしょう。
職業の選択に限らず、その働き方にも「テレワーク」「週休3日制」「短時間労働」「副業可」等々、選択の幅が広がりました。
さらに、生き方、暮らし方、学び方にも、わずか数十年前には想像もできなかったような多くの選択肢が許されるようになりました。
これからもその幅は広がる一方でしょう。
他方で、新しい業態として意識的に商品数を絞った店づくりや用途を極端に限った商品が注目されているという話題も最近よく耳にします。
マーケティングの世界ではニッチ(niche=隙間)という言葉がよく使われます。
大手企業が手を出しにくいきわめて小規模な市場を狙った事業戦略のことです。
わずか数坪の商店や目的を絞った商品が、多くの顧客を惹きつけることは珍しくありません。
人は選択肢が多いほど、自分の判断に不安を感じて満足感が減少するという「選択のパラドックス」と呼ばれる現象があります。
「選択肢が多いことが幸福とは限らないのでは?」などと、師走のあわただしい中、職業別人口割合の資料を集めながら余計なことを考えてしまいました。
これからも月イチを目標にコラム掲載を続けます。
よろしくお願いします。
令和6年
1月 あ・「あけましてトリビア」
2月 さ・「才能を伸ばす未熟さ」
3月 き・「貴重なバランス意識」
4月 ゆ・「揺るぎない訓諭(くんゆ)」
5月 め・「目にする輝きは何年目?」
6月 み。「未知の強み」
7月
8月
9月
10月
11月
12月
あけましてトリビア (令和6年1月1日)
元旦の「旦」という字は、見た目どおり水平線から日が昇る状態を表した漢字です。
つまり「元旦」とは、元日の朝を意味する言葉ということになります。
また「新年」という言葉自体に年が改まったという意味が含まれているので、「新年、明けましておめでとうございます」という挨拶は、厳密には意味の重複する間違った言い方(重複表現、重言=じゅうげん)だと言えます。
ちなみに「明けまして」というのは年が改まったという意味ですので、「まだ夜が明けてないのに、明けましてというのはおかしい」ということはありません。
そもそも、どうして新年がおめでたいのでしょうか。
江戸時代には、年齢を「満」ではなく「数え年」で考えていました。
0才という概念はなくて、赤ちゃんは生まれたその日から1才。
そして誕生日に関係なく、年が改まる瞬間に全員が一斉に年をとりました。
そこで「明けましておめでとう」ということになるのです。
余談になりますが、昔は日没が一日の終わりだと考えられており、大晦日の日没時に年が改まるとされていました。
冬は日没が早いので、まだ夕方になったばかりの時間から除夜の鐘を撞(つ)いて新年を祝っていたのです。
しめ縄と門松を目印にやってくる年神様をお迎えして生命力を高めるために、大晦日は寝ないでいるという「年籠り(としごもり)」という習慣もあったそうです。
月の満ち欠けを基準にした太陰暦(旧暦)では、新月の日が朔日(ついたち=月の始め、1日)とされており、365日でひと回りする季節との誤差は閏月(うるうづき)を入れることで調整していました。
閏月の入った年は13か月あったということになります。
旧正月とはその旧暦に従った日ですから、太陽の動きを元にした立春とは根本的に異なります。
旧正月は現在の暦で1月下旬から2月下旬、立春は2月3日か4日なので、ごくまれに両日が重なる年もあります。
それでは、どうかこの年が皆様にとって幸多い年でありますように。
才能を伸ばす未熟さ (令和6年2月1日)
2018年と2020年の全米オープン、ならびに2019年と2021年の全豪オープンで優勝したテニスプレイヤー大坂直美さんは、「チャンピオンになって生活が一変したのでは?」という問いに、「いえ、今までと全く同じ練習を続けています」と答えました。
また、メジャーリーガー大谷翔平さんは渡米後も毎日10時間の睡眠時間を確保しているそうです。
そのため、昨年ニューヨーク市内には「もし仮にショウヘイがヤンキースに来ることになっても、むやみに声をかけたり誘ったりしないように」というメッセージが流されていたそうです(笑)。
何かにつけてお祭り騒ぎやホームパーティの好きなアメリカ社会において、二人のストイックなまでの生活リズムは奇異に映ることもあるでしょう。
なぜ彼らは、そこまで基本的な生活習慣にこだわるのでしょうか。
室町時代に能を大成させた世阿弥の書「花鏡」に、「初心忘るべからず」という有名な一節があります。
新年あるいは新年度を迎える式典などでよく引用される言葉ですが、ここでいう「初心」とは未熟さのことだと聞いたことがあります。
おのれの実績や才能に溺れることなく、過去・現在の自分の未熟さを自覚せよという教えだそうです。
未熟さを知る人間ほど、多くの伸びしろを秘めています。
いえ、自分の未熟さを知ったときから本当の成長が始まるのかもしれません。
つまり、壁にぶち当たったときこそ成長するチャンスだということでしょう。
「初心」を忘れることなく、未熟さが育(はぐく)む才能を信じて、大坂・大谷両選手のように堅実な歩みを続けたいものです。
”急がず、休まず”
貴重なバランス意識 (令和6年3月1日)
頭の中にも心の中にも、「今を楽しむための部分」と「将来に備えて自分を高めるための部分」があります。
そしてそのどちらにも容量の限界がありません。
ですから成長期において、この二つを車の両輪のようにバランスよく成長させることが重要です。
植物の成長に太陽の光と恵の雨が欠かせないのと似ていますね。
本能とは、種が受け継いできた先天的な記憶と言えるでしょう。
それをさらに磨き役立てるために、後天的な知識を学ぶ「school=学校」という制度が、古来より全世界に誕生・発展してきました。
記録によれば、4000年以上前のエジプト周辺にすでに学校のようなものがあったそうです。
”school”という言葉の起源は、ギリシア語の”skhole”(スコレー=余暇)だというのですから、私の好きな「余暇の善用」という言葉がそのまま学校というシステムの源泉だったのでしょう。
我が国について簡単に言えば、1300年以上前に学校のようなものが出現し、701年の大宝律令によって全国各地に拡大。
その後時代の変化とともにさまざまな展開を見せた後、1872年(明治5年)に発せられた教育法令「学制」によって近代的な学校制度へと成長しました。
飼い猫はネズミを捕りません。
人間も伸ばそうと努力した能力しか伸ばすことはできません。
スポーツ選手にあこがれて、「好きなことでお金がもらえるなんてラッキーだなぁ」とうらやましく思う若者がいるかもしれませんが、彼らは耐え難い暑さ寒さの中で、多くの楽しみを犠牲にして青春時代の大半を過ごしてきたのです。
「楽しむ心」と「備える心」。
両者をバランスよく育てて、誰もが持つ無限の可能性を見失わないように願います。
揺るぎない訓諭(くんゆ) (令和6年4月1日)
「文章題がわかりません」「社会が苦手です」というのはよく聞く話です。
しかも「文章題」の何がわからないのか、「社会」のどこが苦手なのか、本人もわかっていないことが少なくありません。
そもそも問題点を具体的に検証できていないから行き詰まっているのです。
問題を大きくとらえすぎると、本質が見えづらくなります。
社会で起こるさまざまな問題も、「高齢社会」「被災地」「政治とカネ」などという言葉でひとくくりにしたとたん、本質から遠い議論へとすり替えられてしまいます。
計算問題の配点は1問3~5点程度、それに対して文章題は1問15点から20点とすれば、文章題のミスが目立つのは当然です。
だからといって「文章題で損をしている」という結論に飛びつく前に、まず文章題の回答ステップを詳しく考えてみましょう。
①問題文の意味するところを読み取る。
②出題者の意図をそのまま数式に表す。
③規則に従って正確に数式を解く。
④求められている答えを導く。(計算の結果がそのまま正解とは限りません)
これらのどこが苦手なのか人によって異なりますし、当然その対策も全く異なります。
文章を理解できているか(読解力)、数式を正確に解けるか(計算技術)、数式そのものを理解しているか(応用力)、考えたことを数学的に表現できるか(論理性)。
教科書の例題をよく読んで、まず自分の苦手ポイントを見つけることです。
他の科目についても、どうして積極的になれないのか、今までどんな努力をしてきたのか、得意な人はどんな勉強をしているのか、などを含めて具体的に振り返ってみてください。
箇条書きにすれば、それがそのまま解決策になります。
自分に足りなかったものを細かく書きだして、ひとつひとつ消していきましょう。
応用問題やひっかけ問題にも対応できる確固たる基礎学習は、「あと1点」「あと1歩」の積み重ねから得られる揺るぎない訓諭となります。
目にする輝きは何年目 (令和6年5月1日)
1964年(昭和39年)10月1日、東京オリンピック開会式の9日前に東京駅を出発した新幹線が、丸60年の歳月を経て先月福井に到着しました。
開業当初「速すぎて風情がない」とも言われた新幹線でしたが、福井までの道のりは想像以上に長く険しいものだったようです。
ようやく福井にたどり着いた北陸新幹線「かがやき」にちなんで、今回は空のかがやきのお話を。
私たちが見ている星は、大きく3種類に分けられます。
① 紀元前 3000 年頃、古代メソポ タミアの人々が考え、ギリシャに伝って神話と結びついたと言われる88の星座。それを成しているのが「恒星」です。
「恒」とは「変わらない」という意味で、その名のとおり地球から見た位置関係が変わらないことから、現在も同じ形の星座を見ることができます。
② これに対して「惑星」は地球と同じように太陽の周りを公転しているため、地球から見た位置関係があちこち変化することから「惑う」星と名付けられました。
また、惑星は自ら光を発しないので、太陽系以外に属する惑星を肉眼で見ることはできません。
③ 残されたもう1種類の星は、惑星の周りを周回する「衛星」(月や土星の環など)です。
ちなみに、よくある恒星の天体写真は長時間かけて集めたかすかな光を拡大表示したもので、残念ながら地球からは、どんなに大きな望遠鏡をのぞいても恒星は点にしか見えません。
天体望遠鏡は、恒星を大きく見るためのものではなく、光を集めて明るく見るためのものと言った方が正確かもしれません。
新幹線は60年かけて福井にやって来ましたが、私たちの見ることができる恒星は、光速(秒速30万Km)でも少なくとも500年以上かけて届いています。
今あなたが目にしている星の瞬(またた)きは、はたして何百年前に発せられたものなのでしょうか。
未知の強み (令和6年6月1日)
120年ほど前(20世紀初頭)、ニューヨークの印刷工場に勤務していたウィリス・キャリア(Willis Carrier)氏が、インクの質を安定させるために冷媒を入れたパイプを利用して室内の空気を冷やす装置を作りました。
これが人類初のエアコン誕生の瞬間でした。
夏が暑いのは仕方ないという常識を、一人の技師が覆したのです。
このように、誰もがただ見上げるばかりだった限界もいつか超えられる日が必ずやって来ます。
今の限界を決めているのは、今の状況に過ぎません。
自己紹介するとき、つい「〇〇が苦手です」「〇〇はよくわかりません」と、短所を強調してしまう人が多いと言われます。
緊張から逃れたいという欲求から、自己否定する習慣を身に付けてしまっているのかも知れません。
自分を生かすということは、自分をコントロールすること。
自分が無力なのは、自分は無力だと決めつけているからです。
下ばかり見ていると、まっすぐ進むことはできません。
今後、学習を続けていくうえでどんな難問に出会っても、心の内に自信という灯をともして、胸を張って笑顔で立ち向かいましょう。
限界は自分が決めているだけ。
もちろん自分の未知を知り、未知と向き合うことは大切なことです。
けれど、そこで卑屈になるのは、自分の弱さや不運を言いわけに努力を放棄するということ。
退く必要はありません。
未知の領域が大きいということは、実は何よりの強みなのですから。